天国まであと1歩

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試合開始:03

走って走って走って、彼は小さな通りに出た。家を出てきっとまだ数分しか経っていないだろう。 小学校の頃から毎日通っていたこの通りに今は誰一人として歩いておらず、ずっと向こう、視界では見えない範囲にまで続いている道にはその果てがないように思えてしまった。 見渡す限り誰もいない一人だけの世界。ただ一人、ポツンとどこか遠くに投げ出されたような気分になった。
 左腕に付けた時計を見てみると朝のHRに間に合うかどうかとても際どい時間だった。 また全速力で走らなければいけないことを考えると溜め息が漏れたが、朝起きた後の自分のだらしなさに問題があったのはわかっていたため仕様がない事なのだと諦めがついた。 半分投げやりな気持ちで足に力を入れる。 学校に着くまでにまだまだ時間がかかるということは、どう足掻いても避けられない事実だった。

「最っ悪……」
 今の状況を表す言葉など、この一言以外の何者でもない。 通りを走り出した直後、ちょうどすぐ足元に転がっていた大きな石ころに足を引っ掛け、躓いた。 そのまま勢いよく滑り込んだその先には運悪く黒猫がのんびりと横になっていて、彼女――メス猫だった。 こう言うのも何だか変な気もするが、綺麗な顔立ちをしていた――に直撃するとたいそうご立腹だったらしく、右頬目掛けて尖った爪で思い切り引っ掻かれた。 引っ掻かれたまさにその瞬間、大人から子供まで幅広い層に昔から大人気の青いネコ型ロボットのアニメの主役の一人である少々鈍間な少年の姿が脳裏に過ぎった。 あぁそうだ、今まさにその人物のようなのだ、自分は。 黒猫さんに振られた後は、再度学校目掛けて走り続けたが途中うっかり穴の開いた下水道に足を突っ込んだ。 そしてつい先ほどは、カラスに糞を落とされた。それもお気に入りの鞄の上に、だ。 …ああ、なんて情けないことだろう。これは星座占いが当たっているという証拠なのだろうか。 こんなに不幸なことばかりが起きていると、一体自分が何を目的として走っているのかさえ疑問に思えてくる。 いやしかしそう思うのは自分だけなのだろうか。
 糞に触れないよう鞄の小ポケットの中からポケットティッシュを取り出す。 擦り付けないよう優しく糞を取ろうとするものの、それは中々難しいものであり、悪戦苦闘をしている内に気がつけば糞の面積の半分以上が鞄に染み込んでしまうという、なんとも皮肉な結果に陥ってしまっていた。
 ――あはははは、今日の俺って超アンラッキーボーイ。英語で言うとユーエヌエルユーシーケーワイ、ビーオーワイ。 unlucky-boy。これでも次回のテストの英語はばっちり!あー面白い面白い。笑っちまうべや、こりゃ。
 へへへ、と思想と合わせて皮肉な笑みを浮かべる真堀豊(男子12番)の姿は学校に少しずつ近付くにつれようやくちらほらと姿を見せ始めたご町内の方々から不審な目でちらちらと見られていたが、自らの不幸に酔いしれている彼はそんなことに気付きもしない。 不幸中の幸いなのか、あるいは不幸中の不幸なのか。それは誰も、わからない。
 バシャ、と言う聞いていてとてもスッキリとするような音と同時に豊の視界が一瞬にして茶色く染まったのは、その直後のことだった。
 その、やや猿顔と言われているが割りと整ってはいるであろう彼の顔にはひんやりと冷たく、ざらざらした感触。 呆然と立ち尽くしたまま手で顔を拭う。 どうやら茶色い何かは泥だったようで、制服の裾が汚れてしまう悲惨な状況になった。 ――果たして母は何も言わずにこれを洗ってくれるだろうか?
 そのまま明るくなった視界を目の前に向けると、そこに映ったのは一台の黒いベンツだった。 一般的な庶民の車とは全く別世界のものらしく、テカテカと下品なほどに輝きを見せたそのベンツは豊の前をただ通り過ぎていった。 ベンツの通ったその道路を見ると、小学生がよく足を突っ込ませながら遊んでいるくらいの大きな水溜りが存在していた。 どうやら自分はその水溜りの一部を浴びせられたらしい。しかもご丁寧にも泥入り、ときた。
 それを理解するのに、少々時間が必要だった。
「……あー、ちくしょーこんにゃろう、もう!俺が何したってんだよ!?神よ!」
 なんて理不尽さだ、と一人ブツブツと呟きながらも、顔を拭った腕の反対側の手に持ち続けていたポケットティッシュを鞄に詰め込んだ。 詰め込み終えるとちょうどタイミング良く後ろから声がし、不審に思いその方向へと振り向いた。
「豊……ご愁傷様。朝からこんなにすばらしいものを見せてくれてありがとう、友よ……」
 その言葉に思わずムッとくる。 後方からは近所に住む、幼稚園以来の幼馴染の一人である栗山秋(くりやま・しゅう/男子4番)がひらひらと優雅に手を振りつつも爆笑しながら歩いていた。 「やーやーやー、汚ねーなぁ」と言いながら手を振り終える。そして、豊に追いつくのもそれと同時だった。 百八十三センチという学年で一番の長身を誇るバスケ部部長の彼は、彼が豊に近付くにつれて豊の首を上へと向かせていった。 男の自分が言うのも何なのだが、いつ見ても整った顔立ちをしているな、と思う。 パッチリとした二重瞼にくっきりとした鼻筋、唇は厚すぎずかつ薄すぎず、フェイスラインは余分な肉など一切つけてはいなかった。 今時こんな何もかもが整っている人間がいるのだろうか。 神様はとことん、生き物を平等になんて扱ってくれない。むしろ、贔屓が多すぎると思う。
 ただそんな彼も頭だけはけして良い方ではなく、下から数えて数番目という位置にいたのだが。
「豊も遅刻かー?」
「まだ遅刻って限んないべや」
「えー、んじゃ走るべ!俺はねー、寝坊した。起きたら八時十分だったし。ははは」
 秋の「よーいドン!」という言葉につられて慌てて棒立ちだった足を前後に動かした。 彼の背中を追うのに必死で、学校のことや、ましてや遅刻をするかもしれないということなど豊の頭の中からはとうに消え去っていた。 あるのはただ、ひたすら前を行く友人の広い背中だけだった。
 速い、速い、彼の速度。どこまでもその彼の背中を追い続ける、自分。 劈くように耳を切る風の音に、限界を知らない脚。前を走る友人の顔は、見えやしない。 そんな彼から重力など感じられず、僕も今、身体の重力を感じなくなっていた。それはまるで、風のように。
「なー!豊ー!」
 決して振り返ることなく、秋が力の限り叫んだ。
「あー!?なしたー!?」
「時計見たんだけどさー、もう玄関しまってるわー!」
「はぁ!?」
「でも教室の窓から入れば問題ナッシンだからー!どーせ橋本センセーも来てないって!」
「……だなー!」
 二人で大音量で叫んだ後は、二人で大音量で笑う。それでも速さは衰えることなく、むしろ徐々に徐々にと速まりつつあった。曲がり角を難なく曲がり、学校へと続く最後の長い長い一本道を走り始める。 遅刻者がいないか確認するために学校周辺を見回っている教師の姿がポツン、と点になって現れた。

「なあ豊ー」
「んー?何ー」
「お前さ、ベンツに水かけられてたべ?」
「……思い出させんなよ……」
「あのベンツっぽい車、駐車場にあるの見えんだけど」
「うわ、まじで?最悪……仕返ししてやっかな、何か。 ……つか秋、どこまで視力いーんだよ」
「俺の家系は視力がいいんだよ」
「おー、じゃああの可愛らしい花ちゃんもかー」
「もちろんあのクソガキもだ!」
「お前、花ちゃんになんてことを……!妹はもっと大切に接すれ阿呆!」
「いや……豊は旭ちゃん可愛がりすぎなんじゃね……?」
「可愛がりすぎなんかじゃない、旭は可愛いんだ!もちろん花ちゃんもだ!」
「花とかただのチビガキなだけだべー。つかさ、あのベンツ金持ちっぽくねぇ?誰か来んのかな?」
「んー、転校生とかじゃね?ベンツって響きが都会っぽいよなぁ……東京とかからかぁ?」
「それなら三年のやつだといいなー、豊ー!」
「……は?何ぜっってぇヤダ!俺にあんな汚い泥水かけやがってアンニャロウめ!」

「ねーねー太郎ちゃんー」
「何?雪子ちゃん」
「さっき雪子たちが水かけちゃった男の子わかるー?」
「……男の子?さあ……花子ちゃんは見た?」
「私見てないよ。っていうか、水っていつかけたの?」
「さっき通りでかけちゃったんだよー」
「雪子。で、その男の子がどうかしたのか?」
「次郎ちゃん、雪子の話ちゃんと聞いてくれるから大好きー!」
「とっとと話してよ、雪子」
「……はあーい。うんとねーその子ね、あれだよ、男子十二番の子だったよ!」
「……本当?」
「雪子嘘はつかないよ、花子ちゃん!」
「――太郎くん」
「わかってる、花子ちゃん。次郎くん、実行部隊の責任者にまだダメですって。もう少しだけ遅らせて下さいって、そう伝えて」
「わかった、直ぐ伝える」