まだ忘れない

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試合開始:04

父が彼の親友である我が大東亜共和国の防衛庁長官の元へ初めて遊びに連れて行ってくれたのは、私がまだ十歳にも満たない小さな少女の頃だった。 当時の私は今の私のように捻くれた感情など持ち合わせていなくて、何の疑心も持たずににこにこと微笑んでくれた防衛庁長官に子供心ながらに好意を抱き、挨拶をしたものだ。 彼もまたそんな無邪気な私をたいそう気に入り、しまいには実の娘のように私を可愛がってくれた。 確か彼には私よりも小さい息子さんが一人と奥さんがいて、奥さんもまた私を息子さん同様可愛がってくれた。
 自宅も大した遠くもない、どちらかといえば近所に位置していたため遊びに行くことも多々あった。 その頃は今ほど物騒な世の中ではなかったので母親にお土産を持たされて一人胸を弾ませながら向かったものだ。 そうしてその度に彼が玄関で私を見て「よく来たね」と必ず言ってくれたのが、その足元で彼の息子さんが頬を桃色に染めながら笑顔で手を振ってくれたのが、私はとても好きだった。
 当時見た彼のあの笑顔は、私にどこか昔の俳優を連想させていた。 今思えば、ある種の違和感だったのだろう。どこか芝居がかった表情。仕草。言葉。 嗚呼、こんなこと、今では嫌というほどわかるのに。
 あの人の名前はもう、覚えていない。 十二歳の誕生日のほんの少し前、彼は事故か何かで亡くなった。もう忘れなさい、といつだか父から告げられた。 それと同じくして奥さんと息子さんもどこかへと引っ越していった。 実家に戻るのでしょうね、とお母さんと近所のおばあさんが話をしていたのを耳にした。 ねぇお母さん、あの小さい男の子はどこに行っちゃったんだろうね。
 嗚呼。今も思い出すのは、どうしてなのだろう。
 今でも覚えているんです。
 彼から教わった手に触れた冷たい感触と、右手の人差し指に残るあの重さを。

さて、どうしようか。
 今、目の前には一人の少年がこちらを向いて座っていた。 大きくて透き通るほど綺麗な瞳は真っ直ぐとこちらに向いており、その瞳からは今にも大噴火が起こりそうな――否、既に大噴火が起こっているほどの怒りを爆発させている。 自分は、この少年の話を聞いてあげなければならなかった。
 しかしどうだろう。右手前方、黒板により近い位置から自分へと視線を向けられている気がする。 それが一瞬のうちなら良かったものの視線はいつまで経っても自分から離れようとはしない。 まるで纏わりつかれているかのようだ。 中学校に入りたての頃に体験したあのジトリ、ジトリとした艶かしい視線とは違いこれはごくあっさりとしたものなのだが、どうもやけに気にかかる。 自分では大して気にしていないつもりだったがやはり一種のしこりのようなものが胸に残っているのか、例えどのようなものであろうと視線については無償に気になって仕方がなかった。
 かといって、少年の話を遮ってまでこの視線の持ち主を確認したいのか、と己に問うとそうでもない。 やはりこれは、神にこの少年の話を聞いてあげるべきなのだと諭されているのだろうか。
「ちょっと涼、聞いてる?」
 目の前で宇佐美光(男子2番)がその可愛らしい顔を歪ませながら頬杖を付いた。
「あー、ごめん……で、何?」
「だーかーらぁ……滅多に言わない俺の苦労話くらいさ、聞いててくれていいべや……」
「あーもうはいはい、泣かない光。で、どうしたのさ?」
「……んー。それでさ、教頭のやつがさ。 さっきおはよーございまーすっつったらさぁ、俺の顔見たと思ったら行き成りしがみ付いて泣いてきたんだよ……ありえなくない!?そん時廊下に誰もいなかったから良かったけどさぁ……いくら俺がやつ溺愛のお孫サンにそっくりだからって泣くことないべ、なぁ?涼。 あー超気持ち悪かった。あいつベタベタしてくっから嫌なんだよね。油ギッシュだし」
 騒がしい教室の中、ちょうど真ん中に位置する二つの座席。その片方に座る光を向かいに、北上涼(女子4番)は淡々と彼の話に耳を傾けた。 周りの騒音など気にせず、そしてつい先ほどまで感じていた視線なども気にせず。 その視線はといえば何時の間にやら、消え去っていた。
 容姿端麗。頭脳明晰。女子の中では飛び抜けている運動神経。欠点が、見当たらない。
 涼に対する客観的な意見を答えろ、と問うのなら、まさにそれがそうだった。 全てがパーフェクトと言ってもいいほどの少女。いや少女というよりもむしろ女性、と表した方が良いのかもしれない。 そんな少女が涼という人間に対する見解だった。
 それでもただ一つあえて欠点を挙げるとするのなら、周囲に対し少々冷めた部分がある、という点だろう。それは全くの誤解でグループ内の人間にはとても優しく接していたのだが――彼女は少々――否、かなり人見知りが激しかったので、グループ外の人間からは誤解されることが多々あった。しかしそれは最早どうしようもないことで、それならばいっそと、諦めの傾向にあるのが今日の彼女である。 唯一の救いといえば、彼女はそれを別に気にしていないということだろう。
 対する光はいわゆる少女顔、それも一般的な少女よりもとても可愛らしい顔の作りをしていた。 女子生徒からの人気があるのはわかるにしろ、その人気は後輩、教師、さらには男子生徒にまでその範囲は及んでいた。 それは男子生徒の中で最も女子生徒に好意を持たれていると言われる栗山秋(男子4番)に、女子生徒の中で最も男子生徒に好意を持たれていると言われる弥生夏実(やよい・なつみ/女子15番)に次ぐ最も近い位置にいるだろう。
 花笠中学の教頭である山村喜一郎氏が溺愛しているという彼の孫に大そう似ているらしく、いつも彼に見かけられてはベタベタとスキンシップを図られていた。 それは既に、日常生活の一部となっていると言っても過言ではないだろう。
 そのような訳でほぼ日常的に幼馴染である涼に対して彼は教頭に関する愚痴を聞いてもらっていた。 たった今話していることも、山村氏への愚痴だ。
 でもまぁ、それは毎度のことだった。もう、慣れた。

しばらく光の愚痴を聞いていると無意識のうちに涼は彼女ご自慢の一つ、ストレートロングヘアーを耳にかけてから肩に手をかけていた。そして首をコキコキと傾げ、鳴らした。 自慢じゃあなかったが、首が凝るときは必ずと言って良いほど自分の考えが当たっていた、なぜか。 たとえそれが良いことにしろ、悪いことにしろ。
 そして今日は何か、悪いことが起こりそうな予感が頭を過ぎった。それはとても、とても悪いことが。
 ――そういえば今日は父さん、いつもと様子が微妙に違ってた気がする。
 それは首の凝りによる心理的なもので、気にしすぎていることかもしれなかった。その通り、自分の気のせいなのだろうとは思うけれど。少々暗みがかった顔をした涼の雰囲気を察したのか「涼?どうかした?」と光が顔を覗き込んだ。
「んーん……別になんでもないから。気にしないで」
「そ?……ほんとにかぁ?」
「私が今まで光に嘘ついたことある?」
「ある。俺とか、あと水穂とまひるにはよく嘘つくべさ、お前」
「それはあんたらがちっこくていじりがいがあるからに決まってるじゃん。わかりきったこと言わないの」
「……何気にひどくね?涼。……あ、ちょ、直幸に森やん!カム!」
 何ともタイミングよく直ぐ傍を通りかかった森下潤一(もりした・じゅんいち/男子13番)若月直幸(わかつき・なおゆき/男子17番)に声をかけると光は立ち上がった。 急に勢いよく呼ばれた為か彼らはいささか驚いていたが、目をぱちくりさせながらもどうしたと言わんばかりに、にこにこと歩み寄る。
「俺って凹凹コンビより大人だよね!?いじりがいなんてないよな!?」
「……って光がうるさいんだけどさ。直幸と森やんはどう思う?ありえないよね」
 呆れて物も言えないわー。ボソリとそう呟く。
「うん、普通にありえない。光ちゃんドンマイ!」
「あぁ!?おいこら直幸、んなこと言うなや!……森やん!」
「うーん……確かに水穂とまひるの方が子供だけどー……光も、大人ではないよ、うん」
 直幸はニヤニヤと笑みを浮かべ、ポン、と光の頭を撫でた。 その横で、潤一がにっこりとその目を細めて微笑んだ。
「……は?何ぜっってぇヤダ!俺にあんな汚い泥水かけやがってアンニャロウめ!」 「あ、うぃーっす。豊に秋」
「おー、お前ら朝まで輪投げ勝負か!?」
「ちょっとー、あんたらどこから入ってんのさ!汚いなー」
 そんな和やかな光景を尻目に、突如窓のほうから派手な音が響き渡った。ドスン、という音とともに栗山秋と真堀豊(男子12番)の姿が現れたは一目瞭然であり、その音はどうやら二人が“窓登校”をしてきたことを示す充分な証拠となっていた。
 ああもうこんな時間なんだと時計を見遣る。 二人が遅刻をしてくるのはいつものこと、日常茶飯事だ。
 不意に、豊が黒板よりのドアの方へと視線を動かしたのが目に付いた。そして彼は顔を赤く染め上げる。 大方、小泉真希(女子4番)と目でも合ったに違いない。彼らは周囲が承知済みの両想いなのだから。
 しかし皮肉なことに周囲がいくら互いの気持ちを察しようと肝心の本人達はまるきり気付きすらせず、いくら経とうと二人の仲は進展しなかった。 情けない。何をもたもたしているんだろう、さっさとくっついてしまえ。
 彼らのほうを見ていると、秋と同じ班員の人間がぞろぞろと二人の元へ集まっていた。
 後ろ向きだったが独特の髪型で班別出来たのは進藤淳(男子7番)、男子生徒で一番小柄な身体を持ち童顔ゆえに幼く見られる高崎要(男子8番)。 楽しそうに豊の顔を思う存分いじくりまわしているのは高柳真白(たかやぎ・ましろ/男子9番)。彼はその名の通りとても色白の少年だった。ケタケタと二人を指差しながら笑っているクラス一小柄で凹凹コンビの片割れである高屋まひる(女子9番)だが、彼女は涼や光と同じグループに属していた。そんな騒がしい六人を見守るように学級委員長の夏実は溜め息をついていた。どこのグループだろうと、まとめ役はどうやら苦労人らしい。 姉御肌の彼女は少々疲れているらしく腰に手を当て、ひっそりと背中を反っていた。
 光の言葉は耳に入ってこなかった。
 豊や秋、真白らの固まりを観察していると中々面白いということに気付き、涼は一見光の話を聞いているように、だがしかし実際は彼らの動向を探るように見つめていた。
 人間観察も悪くない。
 ぼうっと目を虚ろにさせた涼の瞳に、ベラベラと大声で話を始めた秋の姿が映し出された。
「ちょー、聞いてや。こいつ学校の方に行ったベンツにさぁ、水溜りがっつしかけられたんだって!馬鹿すぎねぇ?」
「秋!お前何ばらしてんだよコンチクショウ!」
「うぅわ、ありえねえべそれ」
「豊……俺でもそれはないよ……」
「じゅ……淳と要ちゃんもか!?ゆっきぃ!お前は違うよな!?」
「はい気持ち悪ーい。秋ー、こいつのキモさ何とかしてや」
「ゆっきぃ……!まひるに弥生さん……!ヘルプ、救いの手!」
「豊ちん、まひるはこれしか言えない。ファイト」
「ベンツかー。ふーん……金持ちの人、どっかのクラスに転校して来たりしてね?」
「うお、弥生さんも勘弁してくれやその冗談は。スルーとか一番笑えねー!」
 気付くと、どうやら涼以外にもクラスの大半の生徒が窓側の座席の彼らに注目していた。 現に目の前にいる光の集中もそちらへと注げられている(これにはほっとした、何せ彼の話を聞いていなかったから)。 一体どうすればベンツに水溜りなどかけられるのだろう。 彼はある意味すばらしい才能を持っているのかもしれない。
 しかし涼が注目したポイントはそこではなかった。
「すんげぇ言われよう、豊……ねぇ涼?」
 ――黒いベンツ。
 ――学校の方、
 涼の頭の中で今まで絡まっていた糸が解けるかのように、先ほどから頭で引っかかっていた何かがほどけた感覚が、あった。
 このことは誰にも気付かれてはならない。光を不安にさせてはいけない。 もしかしたら自分の勘違いかもしれなかった。うん、そうだ。 何かの間違いだ、きっと。
 彼女は不意に、再度朝見た父親の姿を脳内に映し出した。朝風呂に入ったというのに顔に数滴ほど流れていた汗。どこか虚ろな目をして、決してこちらに視線を合わせようとしなかった。「涼、」何かを告げようとして噤みそして――僅かに笑んだ口。
 そうだとは思いたくない、でも、それでも確信してしまう。
 頭が、身体全身が、神経の先までもが熱くなっていく。もしそうだとしたら、私はどうすればいい?
 父親は、我が国が誇る「最大行事」の情報関係者だった。
「涼?どうした?聞こえてるー?ねぇ、涼ー」
 彼女を呼んでいる光の声にも気付かず、涼はただひたすら、考えていた。
 一粒の汗が涼の顔を伝って、落ちた。