花追い少女
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試合開始:18
F-7住宅街エリアの一角、クリーム色の外壁で覆われた二階建ての一軒家。道路沿いから見ると垣根が遮っているため判断し難いのだが、門を潜り、玄関へは入らずそのまま左へと曲がった先、隔たりを越えればこの家の一室に繋がるであろう窓ガラスの左隅に、小さな穴が空いていた。その穴の形状からして恐らく人の手によって割られたのであろうが、不可解なことに当たり一面には破片が散らばった様子は垣間見られなかった。
人っ子ひとりが通れるか、通れないか――その程度の穴を潜り抜けると、そこは畳張りの和室だった。襖と窓とはちょうど向い合せになっている。ゴミ箱やタンスなどと言った家財道具以外は特に何も置かれていないその場を抜けて廊下へと足を運ぶと、その先に続くのは、本来であればこの家の持ち主一家が団欒していただろう居間だった。この島へプログラム参加者たちが送られる直前まで持ち主たちはこの場にいたのだろうか。恐らく最後に水を遣ってまだ日が経って間もないであろう鉢植えの花が、しんなりと萎れつつある姿が、部屋の中心部にあるテーブル上から見て取れた。
その隅、黒光りしたソファーの影に身を潜めるかのように、高屋まひる(女子9番)は小さな肩をカタカタと震わせていた。
校舎からここまで全速力で駆け抜けたからだろうか、この家に立て籠もってから三十分は経過したが、依然として荒く吐き出される息が収まる気配はなかった。過呼吸とまでは達しないものの、ゼェゼェと荒げた呼吸を整えることは、今の彼女にとってどうやら至極難しいことらしい。まひるは激しく高鳴る左胸を右手の平でギュッと握り締めた。
辺りに響き渡るほどの激しい音を立てずに此処へ侵入出来たのは、彼女にとって幸いだった。制服の埃取り用として通学鞄に忍ばせていたガムテープを窓の一角に貼り付け、ガムテープの貼られた箇所をピンポイントに割る――以前弟が読んでいた漫画から得た知識だった。こうすると音が目立たないようだったが、まさか本当に成功するとは。漫画も馬鹿には出来ないものだと、感心してしまったものだ。こんな状況下ではあるけれど。
使用したガムテープと、それに張り付いた窓ガラスの破片は、その後すぐさま纏めて和室のゴミ箱へ捨ててしまった。手に持っているのも無意味なことであったし、破片で肌を切るといった怪我をしてはたまらない。残りのガムテープは、侵入したのち暫く考え、通学鞄へ再び仕舞い込んだ。万が一のためだ。何が起こるか本当に、何も、予想がつかないので。念のため。
そして誰かに見つかる前にと、まひるはすぐさま穴を潜り抜けた。窓ガラスを割る際、綺麗に穴を空けることは出来なかったため、一部スカートが尖ったガラスの先に引っ掛かりスリットのように破けてしまったが、その点に関しては仕方がないと言えた。命に差し支えはないので、特に気にもならなかった。
ソファーと壁との間には人ひとりが入り込める程度の空間が存在しており、そこにはまひるの他に、彼女の通学鞄やデイパックが雑然と置かれていた。
暫くの間横座りしていた足がピリピリと痛むのを感じ取り、膝を折り曲げ――所謂体育座りをしながら、壁に背を持たれ掛けさせた。右手は左胸へと宛がったまま、左手は力なく床へと放り投げだされる。プログラム開始当初は支給武器としてデイパックに埋もれていたソムリエナイフも、ソファーの影へと身を潜めた際に発掘され、今はその左手の平の中で息を潜めている。
「こんなの何の役に立つの……」
視線だけを左の手中へと投げ下ろし、まひるは溜め息をついた。
無我夢中でこの一軒家に逃げ込んだは良かったが、息を整えながら気持ちを落ち着かせているうちに、様々な感情がまひるを襲ってきた。
誰もいなかった。
玄関の扉を開けたところで、人っ子ひとり存在しなかった。
あるのは静寂だけだった。
プログラムに放り出された当初は何をも考える余裕がなかったが、こうして振り返ってみると、何とも言えない思いが込み上げる。まひるは口内に溜まった唾を、重々しく喉を鳴らして飲み込んだ。あの時、親友だと思っていた城田水穂(女子6番)の姿は見えなかった。そして、――彼も。
『――別れよ』
耳を疑いたくなるような言葉だったが、それが現実だという事を知らされたのは、雪も解け始め、葉が芽吹きだし始めた一年次の三月中旬、一年を締めくくる終業式の日の放課後のことだった。まだ肌寒く、学校指定のハイソックスではなく黒タイツを穿いていた日だったと、今でも覚えている。
傍にいれば首ごと上へと向けなければ見えなかった少年のこざっぱりとした顔も、数メートル離れていたことにより、視線を少し上向きにしただけで十分に確認することが出来た。
当時所属していたB組の入口前から、C組の入口前に経つ少年を見据えた。心臓に紐を巻き付け、思い切り引っ張ったかのように締め付けられる。次第に頭が火照っていくのが自分でも理解出来たが、少年の口から発せられた言葉だけは理解出来なかった。――否、理解したくなかった。
『――なんで?』
聞かなくとも、答えは明白だった。
入学式の日、中学校生活への期待を胸に抱いた学校の玄関先で、初めて彼を見た。繊細な顔立ちや身長は今と比べさほど変わっていないが、今よりも若干幼さの残る雰囲気や華奢な身体つき。同小の友人と話していたのだろう、少年は屈託ない満面の笑みを浮かべており――一目惚れを生まれてから今の今まで体験したのは、この時が初めてだった。
クラスは異なったが、マネージャーとして入部した先の野球部に少年の姿があったのは奇跡とも言えた。そこから少しずつ少しずつ交流をし、数か月経った頃には、野球部員である男子生徒の中では一番彼との仲が深まっていた。
そうして思い切って気持ちを伝えた、夏も終わり秋口へと差し掛かった初秋、二人の交際は始まった。特に周囲に隠すこともなく、至って普通の男女交際がスタートしたかに見えたが――少々、事情が変わっていた。
デートはおろか、登下校すらままならなかったのだ。付き合っていたというにも関わらず、少年に話し掛けるのにも一苦労だったのだ――好きで、好きで、好きで。告白直前まではごく普通に会話を交わしていたものの、付き合うことになったという極度の照れ故か、彼に対してのまひるの態度は、実にぎこちないものであった。
――極度の照れ故のことだったが、そんなの言い訳にすらならなかったろう。
『友達の状態のが多分良いっしょ、俺ら』
異論はなかった。
彼の言葉は正しかった。恋人と言う枠を取り払い友達という状態へ戻ると、実にスムーズに彼と会話を交わすことが出来た。まるで、想いを伝える以前に戻ったかのようだった。
周囲の人間も察したらしく、特に何も聞かれることなく、まひると少年に対し、普段通りに接してくれていた。おかげで日常生活においても部活動においても、特に何が変化するでもなかった。皆、内心どう考えていたかは定かではなかったが、それは兎に角。
一見、何もかもが元通りだった。次第に皆、二人が付き合っていたことなど頭の隅に追いやり、そのままどこか頭の奥深くの箱にしまわれていった。
しかし、それでも。
表立ってはもう何も言わなかった。水穂にすら、まひるはそのことに関して口を開くことはなくなった。幼馴染である井田満花(女子1番)が何か言いたそうに口をモゴモゴさせていたこともあったが、笑っておどけてみせ、それ以上聞くなと無言で圧した。申し訳ないが、掘り返して欲しくなかったのだ。彼女はそれ以上何も言わなかった。
しかし、それでも。
あれから、一年と、そして少し。
華奢だった身体つきも、今ではすっかり上級生らしい筋肉がつき、小学生らしい雰囲気など微塵も欠片も無くなっていた。ひょろりとした出で立ちや繊細な顔立ちはあの頃と比べて変わっていない。気負ったところのない、軽妙な姿勢もまた、変わらずと言って良いだろう。
いやはや全く、一目惚れという切っ掛け、実に恐ろしいものだ。しかし当時、直感が自身に告げたのだ、どうしようもない。
天井を仰ぎ、まひるは少年の影を追った。
ずっと好きだったよ。たぶんもう、戻ることもないと思うけれど。
ゆっくりと目を瞑り、闇の中、少年の姿を思い描く。きっと戻れるはずもない、だからこそ、余計に追い求めてしまうのだろうか。
瞼を開いてなお、ソファーの上からまひるの顔を覗き込む高柳真白(男子9番)の姿が視界に入り込む。いけないいけない、妄想がついに具現化しちゃった――
そこまで考え、まひるは目を見開いた。違う。妄想なんかじゃない。
「うっす」
ソファー越しに手を掲げ、ひょうひょうと軽く挨拶をする少年は、紛れもなくまひるが恋焦がれていた彼の姿だった。
【残り 二十八人】