聖者の愚鈍
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試合開始:15
「――はい、二分経ちました。じゃあ、エフ、マルヨン。女子四番小泉真希さん。大変長らくお待たせしました、出発してください」
つい二分前に栗山秋(男子4番)が教室を後にし、室内には前方右側に着席している小泉真希(女子4番)と、それと対極の後方左側に位置する駒井茂(こまい・しげる/男子5番)の二人だけが残った。
生徒の名が読み上げられた後の空白の二分間は、特に誰が言葉を発するでもなく、その都度辺りには静寂が漂うばかりだった。まだ人がまばらに残っていた頃はすすり泣く声も幾ばくかあったが、ひとり、またひとりと室外へと赴いた後に残されたのは、時計の針がカチ、カチと進む音、それだけだった。
室内待機者が残り二名となった今、とうとう名を読み上げられた真希は、暫くの間、真正面を向いたまま微動だにしなかった。彼女よりも後部に位置する茂の席からは、その表情を窺い知ることが出来ない。心持ち亀のごとく首を長くしてはみるが、それも差ほど効果は得られなかった。通常の授業中であれば学生からは人気とされる位置に属する茂の座席から彼女の様子を垣間見ることなど、とうてい不可能であるということは、充分にわかりきっていた。
山田太郎はそんな彼女をただじっと見つめていた。大分前に出発した高久希(女子8番)や村岡鈴(女子14番)といった、比較的派手な風貌をしている女子生徒たちには、間隔を置く間もなく「早く行かないと、安原くんや乃木さんの二の舞になりますよ」――ぎゃんぎゃんと泣きわめく彼女たちに、そう、容赦なく言葉の弾丸を向けていたはずだというのに(そしてそのわめきは収まらないまま、彼女たちは嵐のようにその場を後にしていた)、彼女らへの対応と似て非なり、太郎は間髪入れずに思いもよらぬ行動を展開した。
果たして何を思ったか、山田太郎は口を閉ざしたまま教卓を離れ、右ポケットに手を遣る素振りを見せた。銃を取り出すのか――あの、安原伸行(男子14番)や乃木由依子(女子11番)の命をいとも容易く奪った、あの――と、茂の背筋が強張ったのだが、ポケットから取り出した手の指の間から顔を覗かせたものを視界に捉えるや否や、安堵からだろうか――このような状況下で安堵も何もないだろうが――額から、脇の下から、頭のてっぺんからつま先まで、冷や汗がどっと噴き出した。確かに黄色い布きれだった。あれは、ハンカチだろうか。
一つ確実に言えるのは、あれは紛れもなく銃ではない。伸行や由依子の命をも奪った、先刻目にした銃ではない、ただそれだけである。
山田はそのまま真希の座席の前へと足を運ぶ。少年の足取りは、随分と緩やかだった。
真希は相変わらず真正面を向いていた。その姿勢は、例え担当教官が目の前に来たところでぶれることはなかった。この位置からは、山田太郎の表情しか窺えない。そして彼の表情もまた、ぼんやりとしか茂の視界に映し出されなかった。室内で非常に離れている距離、そのような距離間で、明確に表情が浮かび上がるほどの視力など持ち合わせていない。彼は、山田太郎と名乗る少年は、少女に何をしようとしているのか。眉間に力を込め、じっと目を凝らす。
教室の後方で茂がそうこうしている間に、山田太郎が再度動きを見せた。
黄色い布きれを握った手元を彼女の顔へと動かしたかと思えば、そっと目元へと手を寄せた。反射的に閉じられた真希の瞼を拭うようにして布きれを動かすと、皮膚に触れた部分からじんわりと染みが広がりゆく。黄色い布きれ――もとい、ハンカチの一部分が、山吹色へと変色していくのを見届けながら、そのまま小さな担当教官は、ぽん、と彼女の頭へと空いている手を乗せた。
そこで茂は、はた、と気が付いた。真希は泣いていたのだ。そしてあの少年は、彼女の涙を拭ってやっているのだ。
「小泉真希さん、どうぞ。行ってください」
山田太郎の手が真希の頭から離れ、緩やかな弧を描いた。今度こそ、真希は立ち上がった。どのような表情を浮かべていたのか最後までわからぬまま、真希は室内を颯爽と後にした。手には私物の鞄とデイパックを抱えながら。その足取りからは、全く重さを感じられなかった。室内には、茂ただ一人が残された。彼女は最後まで、一度としてこちらを振り返ることはなかった。
「――さて、あとは君ひとりですね。どうです、気持ちの方は。他の方よりも待機時間はたっぷりありましたが、整理はつきましたか?」
「整理って、そんな……」
先刻真希に対して慈しむかのように浮かべていた笑みは鳴りを潜め、それに成り代わり、下卑た笑いが山田太郎の顔一面に広がっていた。余りの変わり身の早さに戸惑いを隠せない茂の額から、汗が滴り落ちる。机の下で握りしめていた手の平が、なおいっそうじんわりと湿り気を帯びた。
「まあそうですよね、行き成りプログラムに放り出されて気持ちの整理も何もないですよね……ああ、そうだ。ひとつ面白い話でもしながら出発時間を待ちましょうか」
図らずも思いついたかのように、山田太郎は続ける。
「――花子ちゃん」
入室当初に紹介をされていたおかっぱ頭の少女に声を掛けると、生徒ひとりひとりに対しデイパックを渡すべく教室入口付近で作業を行っていた彼女は、「はあい」と素直に振り返った。表情には、その場に似つかわしくない、屈託のない笑みさえ浮かべている。
「なあに、太郎くん」
「花子ちゃんは、誰が優勝すると思う?」
花子に話しかけていようと、山田太郎の視線は茂からつかず離れずだった。にも関わらず、ぎょっとしてしまうのを隠しきれない。そんな茂を嘲笑しながらも、少年は少女と会話を続けた。
「わたしは柳くんかな。柳太助(男子15番)くん。だってほら、プログラムに選ばれたこと発表した時、みんな混乱してたけど、あの人だけ担任の先生が不在だったことに気付いてなかった?んー、何だろう、ちょっと冷静ぽいよね、だからプログラムにおいては有利そう」
「そういえばそうだったあ!冷静な人材だけが有利なのかどうかは別として、まあ優勝の可能性もなきにしも有らずだよねー」
突として、より一層幼い声が二人の会話を遮った。花子と名乗る少女のすぐ隣で作業をしていたのは、あれは雪子という少女であったか。
彼女は両の手を打ち同意を示した。そのままその手の指先を組み合わせ、艶めかしく唇を舐める。想像上の生徒らを品定めするかのように、ううん、と唸り声を上げた。
「――でもー、雪子は柳くんよりは栗山秋(男子4番)くんかなあ!優勝してほしいの!だってほらぁ、あのお兄さん格好良かったでしょー!応援したくなっちゃう!……あ、でももちろん雪子の一番は次郎くんだけどお」
黄色い声を上げながらも、くるり、と自身の真後ろに位置した少年を見遣ると、雪子は白い歯を覗かせた。先刻鳴らした後、依然として組み合わせたままの手の平を彼の服の裾へと伸ばすと、そのまま確りと握り締め、クイ、クイ、と存在を主張するかのように手繰り寄せた。
「ねぇ、次郎くんは?」
「え?」
「次郎くんはぁー?誰が優勝すると思う?誰に優勝、してほしい?」
別に雪子たちと同じだったら同じでも、いーよ。首を傾げ、小さな少女が呟く。
最早自分の存在をこの政府関係者の人物たちは認識していないのではないだろうか。恐らくもうすぐ制限時間である二分を越えるであろうことを予期しながらも、茂はそのことを言い出せることもなく、口を噤み、彼らの会話に耳を立てた。
次郎と呼ばれた少年は立ち上がると、山田太郎の方へと歩み寄る。ボソボソと何かを耳打ちすると、用件を把握したのか、頷くや否や山田は教卓の中から茶封筒を取り出し、それを次郎へと託した。
茶封筒の中から書類の束を取り出すと、彼はそれを捲っていく。ぱらぱら、ぱらぱら。捲っていく最中、お目当てが見付かったのか、しばらくしてようやく少年は口を開いた。
「……あの人、ほら、エフ、マルサンの人。――北上涼(女子3番)、とか?」
ぽつり、ぽつりと一言一句慎重に言葉を紡ぎあげたようにも聞こえるその声は、茂の位置からは辛うじて耳に届く程度の、小さな音だった。次郎と名乗った少年に改めて目を遣ると、淡々と手元に備えていた書類を捲り、まさに今、一枚の書類に目を落としていた最中だった。あぁ、北上さんの書類に目を通しているのかと、ぼんやり、茂は頭のひとつ飛び出た少年を見つめていた。
「――駒井くん。僕は誰を推していると思う?」
「え、あの、」
「所属するバドミントン部で部長を務めていて、……そうだな、一見穏やかな性格をしていて、芯がしっかりしている――周囲からはそんな評価をされている生徒なんですけれど」
「……あ、」
「そうだね――まあ率直に言えば、駒井茂くん、君なんだけどね」
顔が強張る。この少年は何を言っているのか、言葉の羅列が無意味に頭を突き抜けるだけだった。体内がざわめき、得も知れぬ熱さが全身を駆け巡る。駆け巡る最中、ひとりの同級生の顔が脳裏を過ぎった。けたたましく心臓の音が鳴り響く。本当に、この少年は何を言っているのだろう。
「まあ、そう言ったところで、君自身はどうせ優勝するつもりはないんでしょうけど」
「……」
「そうだなあ……優勝するつもりはないけれど――ってところだと思うんですけど。どうですか?当たってます?」
教卓の上に置いていたであろうボールペンを手で弄りながら、太郎が質問を投げかけた――否、彼自身の推測する事象を、茂に対して問い掛けた。
「――なんで、」
「なんでも何も、受け持ちの可愛い生徒ですよ。担任が生徒のことを把握していなくて、どうするんですか?」
全てを問うたわけではない。しかし恐らくは含みを帯びているその問い掛けに、ただひたすら“なぜ”、この二文字だけがぐるぐると廻っていた。
「……あぁ、もう二分ですね。はい、名残惜しいけどお話はこれでおーしまい。……エム、マルゴ。駒井茂くん、どうぞ出発してください」
期待していますよ。何を期待しているのか、ただ「期待している」、そう言葉を投げかけ、少年は笑った。彼を一瞥し、デイパックを受け取りに入口へと向かう。
次郎は先ほど太郎の元へ移動したままそれっきりだったので、その場では花子と雪子の二人が待機をしていた。これまでにここを通ったすべての生徒は、彼女らから鞄を受け取って出発していたのだが、それとは唯一異なり、茂がそちらへと赴く前に、花子が手持ちのデイパックを開封しだした。突然のことに茂が口を開こうとするも、彼女のすぐ横でたたずむ少女が、しぃ、と唇の前で人差し指を立たせた。
「なーいしょ」
小声で呪文のように呟いた雪子は、悪戯めいた笑みを浮かべた。その横では「これじゃあだめ」独り言を漏らしながら、花子が開いたデイパックをきっちりと閉め、残っていた別のデイパックを再度引っ掴んだ。
「ちょっと待っててね」
ニヤニヤと卑しく笑いながら、雪子が茂を静止する。彼女に従いながらも、先がまったく見えぬまま、彼はその場に立ち尽くした。新たに掴んだデイパックを同じように開封しようと花子の腕が動く。開封し、鞄内を物色しようとするも、何に気付いたのか、彼女の腕が突如として止まったかと思うや否や、「うん、これでいいや」と言い残し、少女はデイパックを茂に対し放り投げた。
「期待してるよ」山田太郎が口にしたものと同じ言葉を、少女たちは茂に投げかけ、笑った。何をだろうか、ただ、「期待している」と。
訳も分からぬまま、一先ず四人の政府関係者に一礼をし、茂は踵を返した。今はただ、この場を早く離れたいと――それだけだった。
根拠はない、がしかし――彼らの“期待”は定かではないが、恐らく彼らは、自分がこれからどう動くであろうかを予測、いや、把握しているのかもしれない。その上で、デイパック内の“何か”を確認したのかも、しれない。その“何か”が何であるのかは、まだわからないけれど。
自分らよりも幼い筈の担当教官を筆頭とした政府関係者に、底知れぬ、言葉では言い尽せない恐ろしさを抱きながら、少年は校舎を後にした。
午前三時三十分、エフマルゴ、出発。
午前四時三十二分、エムマルゴ、出発。
全対象者、出発完了。
【残り 二十九人】