まどろみ、甘い夢、君の、

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試合開始:07

父親の背広から母のつける香水とは違った香りが薫ったことに気付いたのは、小学二年生の冬だった。
 母親が何も言わずに度々家から逃げるように飛び出し、そしてまた戻って、再び飛び出し……その行動を繰り返すようになったのは、小学三年生の夏だった。
 母親が家に帰る間隔があき始めたのは小学三年生の冬だった。
 彼女が帰らないことを良い事と認識したのか果たして違うのかは定かではないが、父親が自宅に度々母とは別の女性を連れて帰るようになったのは小学四年生の春だった(恐らくは前者だろう)。
 小学四年生の夏、母親の自宅にいる姿を見るのがごく稀になる。偶に見ればいつも父の財布から数枚の札を抜き取っては、何とも貪欲な表情を顔に貼り付けながらそれらを鞄の中に仕舞い込み(如何にも高級そうな素材だった)、そのまま玄関口から姿を眩ますという行動が常だった。
 小学四年生の秋、見知らぬ女が家に居座りついた。紹介もなければ殆ど会話もなく、しかし彼女は自分の家に居た。家中に香水の匂いが染み付いた。小学二年の冬、父の背広から薫っていたそれに似ていた気がした(うろ覚えだけれど)。
 母親とその女性が対面した時も、二人とも特に何も言わなかった。互いを一瞥し、上から下までくまなく見定め、それだけ。
 それから暫くはそのような状態が続いた。離婚届は見たことがなく、とりあえずはまだ父親と母親が結婚したままの状態なんだということだけ理解出来た。
 父親が、母親が、そして女性が蔑むような目で自分を見始めるようになったのは小学五年生の秋で、次第に目すら合わせなくなり、終いに自分が存在していないような―まるで空気のような扱いをされ始めたのは小学六年生の春だった。 気付けば自分は知らぬ間に、二人の人生にとって疎ましい存在になっていた。
 つまりはその程度なのだ。
 彼等にしてみればその程度の存在でしかなかったのだ、自分は。
 世界は広い、そして狭い。
 自身の通っていた小学校での生活ひとつひとつが世界のすべてだと思っていたが、無邪気な他の同級生達よりも一足早く知ってしまったのだ、自分は。
 世の中の汚い部分を何一つ知らされず、すくすくと育っていく彼等。大きくなり成長するにつれて、誰から聞くわけでもなく一つずつ、一つずつ知っていくのだろう。
 幾ら大人たちが臭いものに蓋をしても、結局はみんな蓋を開けてしまうのだ。
 子供たちの好奇心は誰にも止められない。 彼らに各々の手で蓋を開けさせてしまうのなら、最初から教えていれば良かったんだ。 結局のところ、蓋なんて閉めたところで何の意味も持たないというのに。
 無邪気な笑みを浮かべる彼らを見て、
 「ああ、コイツらは所詮、何ひとつわかっちゃいないんだ」
 そう思った。

「なー……マジでこれ何よ?俺ら何でこんなとこにいる訳?ぜってー何かあるよな? そうじゃなかったらあん時みんな行き成り倒れなくね?というか……」
「あーわかったわかった、ちょっと平山、お前は一旦落ち着けや! んなこと俺だって知りてぇに決まってるべ。んなこと俺に聞かれたってわかんねえっつうのな」
「……だよなあ。安原がわかってたら俺、今ごろ神って崇めてるよ安原のこと。神」
「……。……つうか訳わからんのはこの首輪だわな。超気色ワリィ……こんなん初めて見っぞ、俺」
 一メートルも満たない距離、直ぐ隣に座り飽きもせず同じような質問を繰り返す少年、平山竜太(ひらやま・りゅうた/男子11番)を諭すように――とまではいかないものの、一先ず彼からの質問攻めという状況を鎮圧し、少年は自身の首元に巻きついていた首輪にそっと触れた。それをじっと見つめる竜太の首にもまた、同じようなものが巻きついていた。周りには彼らを含め三十四名ほどの生徒達が居るが、その全員が似たり寄ったりの首輪を装着している。
「んんー……一つ言えるのはさ、」
「お、おう、……何だよ」
「俺ら実はぶっちゃけ全員エムッ気があった」
「まじテメエいっぺん死んでこいや」
 山形県遊佐町立花笠中学校三年A組。
 それが彼らの所属するクラス名で、早朝未明、教室内で騒ぎが起きたのち、目覚めると気付けば全員そろって仲良くこの場にいた。
 前方には黒板、その前には教卓。 横六列、縦六列に並ぶのは馴染みのある座席で、目が覚めたその瞬間から各々自身の座席に座っていた。 否、目が覚める前から、が正しいかもしれないが。
 一見何の変哲もない自分達の教室に過ぎなかったが、ボロボロだった己の机とは多少違う、些か新品すぎる(よく手荒に扱っていたからだ。新品なのに越したことはないが)。
 更に言えば窓や扉の硝子には鉄板が一寸の隙間もなくびっしりと敷き詰められている。 首輪もそうだが、これには流石に驚きを隠せれなかった。 多少悲鳴を上げている女子も最初は居たが、それだけだった。
 人間誰しも火事場の馬鹿力を持ち合わせているが、その場その場の対応力もそれとまた似たようなものだと、つくづく感心した。
 しかし、それ以上に驚いた……いや、余りに考えのつかなかった展開に一瞬我を忘れて呆然となったのはきっとあれのせいだろう。 未だにざわめく声の音量が衰えていないのは、
「はい皆さん、起きましたか?全員顔上げてますし、起きてますよね?」
 手をパンパンと叩きながら教室中を見渡す少年が一人。
 ランニングシャツと半ズボンを身につけた後は、仕上げに今日滅多に見られなくなった坊主頭をセットして。 自分たちよりも明らかに幼い顔立ちをしている。――十二歳くらいだろうか。
 目を覚ました時点で既に教卓の前に立っていた彼――とは言っても、どうやら数人ほどばかり起きた時にこの教室(教室と言っていいのかどうかわからなかったけれど)へ入室してきたらしいのだが――はにこやかに笑みを浮かべたまま、例えどれだけ室内がざわめこうと今の今まで口を閉ざしていたが、今初めてその重かった口を開き、とたんにピタリとその場が静まった。
 嘘のような静けさだった。
 誰の息の音ですら聞こえなかった。
 息をしても良いのかどうか、一瞬迷った。
 ざわめきが一瞬にして消えたのに満足したのか少年は先程より機嫌良さ気に笑み、顔をその小柄な体ごと入口の扉へと向ければ、おいでおいでと小さな子供に呼びかけるように手を振った。
 いつの間に待機していたのだろう、少年の合図が終われば次の瞬間には扉がガラリと勢いよく開き、一人の少年を筆頭に、それに続いて二人の少女がそそくさと室内に足を踏み入れた。
 事態のあまりの展開の早さに誰も頭がついていかないのか、先程と比べ生徒たちの変化はこれと言ってない。
 そんな彼らに気付いているのかいないのか、坊主頭の少年はおもむろに口を開き、
「皆さんが起きたところで、ちょっと自己紹介させてもらいますね」
 と告げた。にこにことした笑みは相変わらずで、先程入室してきた三人を一人ずつ呼び出し、そのまま彼らの紹介を始めた。
「はい、この人は“鈴木次郎”くん、十三歳です。確か同じ名前の人がこのクラスに居ますよね。 何て素敵な偶然でしょうか。……はい、次はこの子。あ、ちょっとこっち来てね雪子ちゃん。 ……“佐々木雪子”ちゃん、十一歳です。はい、行って良いよ。……そしてこの子が“佐藤花子”ちゃん、十二歳」
 静まり返る中、淡々と、しかしどこか楽しげに紹介をする彼の姿は少々……いや、充分奇妙なように感じられた。 ポカンと口を開けて呆然とその光景を見詰める生徒達は、未だ状況を把握していないようだった。
 突如現れた見知らぬ少年たちもそうだったが、彼らの肩から腰にかけて見え隠れする物体、それから目を離せないものが多数続出していた。
「……で、僕は"山田太郎"と言います。十二歳です。さて、以上ですが何か質問のある方はいらっしゃいますか?」
 ようやく彼らの自己紹介が終わったらしい。自身を太郎と名乗る少年が再度辺りを見渡す。 顔に浮かぶ相変わらずの笑顔、その表情を暫くの間ずっと見ていて、少年はふと違和感を感じた。
 そんな折、後方から聞こえたとある少女の声によって、その違和感は一時消えることになる。

「やっちゃん、なして一緒に遊ばないんだあ?」
「良いからほっとけよ!今日は俺、遊ばないの!」
 二の腕部分、服の裾をくいくいと軽く引っ張っていた少女の手を振り払い、思わず彼女を睨み上げた。
 突然のことにきょとん、とした彼女。
 どうしようもない後ろめたさとどうしようも出来ない胸のわだかまりが込み上げつつも、そんな自分をどうすることも出来ない幼い自分。
 所詮この子もきっと同じなのだ。
 世界は広く、そして狭いことを何一つ知らない子なのだ。
 その時は振り返ることをせずにその場を足早に立ち去ったのだが、翌日も、その翌日も、それから一週間後も、一ヵ月後も、彼女はずっと自分を誘い続けた。
 自分の家族の状況は近所中に知れ渡っていることは子供ながらに知っていた。 少女も近所に住んでいる、親から自分の家庭事情を少なからず話されているだろうに、しかしそれを感じさせず、彼女はただ無邪気に笑んで「一緒に遊ぼう」とだけ言い、誘い続けた。
 まるでそんなことなど気にしていないように。
 いや、気付いてその上で気にしていない素振りをしているだけかもしれなかった。
 でももう、そんなのはどうでも良かった。
 今思えば限界がきていたのだろう。家庭に対し、世界に対し、そして自分に対し。
 それでも、例えそうであったにしてももうどうでも良かった。
 幾ら周囲に、親に対しつっぱって見せようと、彼らが「悪い」と思っていることをすることで反抗している素振りを見せていようと、心のどこかで救いを求めていたのだ、自分は。
 人間はどうにも単純に出来ている。
 ああ、この子は違う。
 ありのままを受け入れてくれる。
 ありのままを愛してくれる。
 何一つわかっていようとわかっていまいと、それでも良い。
 しょうがない。だって、俺は、人間は単純なんだ。
 日も暮れた帰り際、無邪気に笑んで「一緒に帰ろう」と言い差し出した少女の手を初めて取ったのは、小学六年生の秋。
 彼女が自分を誘い始めてから二年の月日が流れていた。

あれから更におよそ三年の月日が流れた現在、とある少女――もとい藤田千代(女子13番)があの頃と一ミリも変わらぬ声を発して挙手をする様子を、少年――安原伸行(やすはら・のぶゆき/男子14番)はじっと黙って見つめた。
「あのー。ちょっと良いかな、ええと……太郎くん?」
「はい、何でしょう?えー……藤田千代さん」
 先程の“次郎発言”といい今回の発言といい、どうやら太郎と名乗る少年はここにいるすべての生徒の氏名を把握しているようだった。 しかしイマイチ自信がないのか、「……ですよね?どうぞ」と言葉を付け加え、教卓の上に彼が置いたであろうノートの見開きページをちらりと覗いていた。
 そんな太郎の様子に気付いているのかいないのか、千代はそのまま発言を続けた。
「えーとね、ここどこか分かる?というかアレ、今ってもしかして夜?だよね? もし夜であってるなら、何で君たちそこにいるの?こんな夜中に。親御さんにはちゃんと言って来た?」
 前半の質問はまだしも、後半の質問に些か呆れつつ――伸行は目を瞑り溜め息をついたのち、突如目を見開いた。
 一瞬忘れていたあの違和感。
 この山田太郎とか言う少年、本当に笑っているのか、否か。
 彼はずっとにこやかに笑っていた。口角を上げ、常にその顔を崩さぬまま。
 しかし、ある種の違和感を感じたのはその目だった。
 ――笑っていない?
「はい、言って来ました。ちゃんと許可も得ていますよ。ご心配おかけしましたが、心遣い頂き有難うございます、藤田さん」
 変わらず口元に笑みを浮かべたまま、太郎は対応している。 どうやら今からこの状況に関する説明をするらしく、微笑みかけながら千代に着席を求めていた。 頷いては座る千代を確認した後、彼はもう一度室内をざっと見渡す。 口元には笑みが、しかしやはり目元は無表情のまま(気にしすぎなのかもしれないけれど)。
 太郎が口を開く。
 彼の口元に、声に、言葉を聞き漏らすまいとして集中しているのはきっと自分だけではなかった筈だ。
 そして、
「えー、コホン。皆さんは本日、一九九六年六月五日。 ……我が大東亜共和国が誇る、名誉ある戦闘実験の対象クラスとして選ばれました!おめでとうございます!」
 一瞬空気が固まったような気がしたのもきっと、自分だけではなかった筈だ。

【残り 三十四人】