崩れてく

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試合開始:05

不機嫌、ただその一言に尽きた。
 つい先ほど過ごしたばかりの一時を頭に浮かべ、そして不快感を露にしながら真堀豊(男子12番)は廊下側の一番手前に位置する自らの席に赴いた。ただでさえ思い出したくもない悲惨な出来事だというのに。本来なら誰にも知られずにひっそりと胸の中に仕舞い込むはずだったその出来事を、栗山秋(男子4番)はいともあっさりと周囲に吹き込んでしまった。そう、その全てを、声高々に。  お陰で朝から散々だった、不本意ながら、ただでさえ周りからからかわれ易い体質だというのに。 これ以上の不幸はきっとないに等しいだろう。
 ゆっくりと椅子に腰を下ろし、顔をうつ伏せにして瞼を閉じる。 このまま静かに、深い眠りに落ちてしまいたかった。 誰の言葉も耳に届かないほど、深い深い眠りの世界に。
「ぎゃははは!つうかいっつも思うんだけどぉ、超ありえないあの真面目三つ編み」
「てゆか前髪ウザくないのかね、あれ」
「前髪ってゆーかあ、存在が超ウザイ!マジ、あいつとか見てるだけでだるいしぃ」
 しかしそんな豊の思いとは裏腹に、どうやら事とはそう思い通りに運ばれないものらしい。彼の直ぐ後ろの座席で村岡鈴(むらおか・すず/女子14番)湯浅まりな(ゆあさ・まりな/女子16番)の二人、いわゆるコギャルの予備軍である孫ギャルである彼女らがボリュームを最大限に発してケラケラと大爆笑をしていた。 とは言うものの鈴の方は周囲に一応は気を使っているらしく、専らまりなの声だけが響いていたのだが。
 うるさい。一体何なんだこいつらは、――いや間違えた、こいつは。 だるいのはお前のしゃべり方だコノヤロウ。
 そのありったけの思いを全て眼に注ぎ込み、豊は首を後方へと回した。 真っ先に視界に入り込んだのは、常に鈴が制服のブラウスの上に着用しているベージュ色のセーターと彼女の定番の髪型であるポニーテールの先端、そしてあと僅かで下着が見えるのではないかと思わせられるほどに短く丈を切り詰めたスカートだった。 その姿を見て彼女が豊に対し背を向けて机に座っていることを確認した彼は、鈴よりも何よりも奴だ、と言わんばかりに身体を大きく傾けた。
「あーもう、超うざーい!なんであんな奴アタシの近くの席なわけーえ?まじだるいしぃ」
 鈴の背中越しに見たまりなは誰かに対する暴言を吐きながら、ケタケタと笑っている。 きっといつも言っている少女のことだろう。 笑うたびに彼女の天然パーマであるボリューム満点のポニーテールがリズムよく飛び跳ねていた。 本人も気にしているらしい少々厚めの唇はキラキラとしすぎるほど無駄に艶がかっており、化粧に余念がないのが見て取れるほどだ。
 ――だめだ、一気に何を言う気も失せてしまった。
 口を開きかけたがどっと疲れが流れ込んだので、止めた。
 再び前を向き、溜め息を一つ漏らした。

「おはよう。朝から災難だったんだね、大丈夫?」
 聞きなれた声が耳に届く。この世の全てのものを透き通るかのようにじんわりと体内に響き渡る声が。 それを耳にしたからには、もう寝てなどいられなかった。
 それはどんな音よりも、声よりも。豊は彼なりに心臓を落ち着かせながら声のする方へと振り向いた。
「……うす!まー、なんか俺今日やけにアンラッキーだし、しょうがないべ、うん」
「あはは、しょうがないって豊。アンラッキーとかダメでしょそれ。はは」
 嗚呼、何て美しい笑顔なのだろう!この笑顔には例え太陽だろうと敵うまい。
 豊の目の前で目を細めながらにこやかに笑う少女は手を彼の方へ向け、振っていた。 例えるならばよくドラマなどで中年女性が「ちょっと奥さん、聞いてよ」と声を潜めながらやるような手つき、しなやかさと滑らかさは保障付きなまさに、それ。
 澄んでいて、それでどこか安心するその声を発してクスクスと笑い続けながら小泉真希(女子4番)は彼女自身の腹を抱えながら身体を前のめりにうずくまらせた。
「あーおかし!さっき私、みっかにすんごい髪型にされたんだけどさ、それ以上だよ豊ったら」
「……ほら、今度は希でやってる」と続けた真希の右手人差し指がさす方へ視線を向けると、そこには見るも無残な高久希(女子8番)の変わり果てた姿があった。 絶望的な表情を浮かべる彼女の真後ろでは、彼女とは対照的に心の底から楽しそうに笑う井田満花(女子1番)の無邪気に遊ぶ姿が見て取れた。
 これは酷い。ただでさえ癖毛で外に内にと跳ねていた希の肩に下ろされた髪の毛が、今は無数の三つ編みによって成り立っている。 そのうちの数本に至っては重力に逆らって上へ上へと向かっているものも有る。 例えるならば神話に出てくる恐ろしい女性、メデューサ。 はは、と苦笑いを浮かべていると希の怒声が教室中に響き渡った。

一度廊下をちらりと覗いたが担任教師の橋本和夫(はしもと・かずお)の姿は相変わらず現れる気配がなかったので、豊はすぐ教室に頭を引っ込めた。 もう一度覗き込むという面倒くさい行動は起こしたくなかったし、そんなことよりも何よりも、彼が淡い恋心を抱いている真希と会話をしている方がよっぽど良かった。 座席が隣同士、さらに一番端の列なので彼女側でない隣は誰もいない。
 実に好都合な座席に心から感謝し、彼女にこんな自分の下心は気付かれないよう、何気なく会話を続けた。 この席だけは、自分のクジ運の良さに豊は拳を握り締めた。
「……ゆーたかー。起きたあ?」
 どうやら意識がほんの少し飛んでいたらしい(それはもちろん目の前の少女のことを考えていたからなのだが)。 隣の座席にいたはずにも関わらず、何時の間にやら豊の机に顔――顎から上だけをのせ「生首ぃー。あはは!」と笑っている真希の姿が目の前にあった。 覗き込むように、顔を豊に近づけている。
「橋本先生、本当遅すぎだよねー。もう九時十三分だけども!」
 どうやらそうとう彼女の話が耳に入っていなかったらしく、そう言いながら笑っているはずの真希の眉間には僅かに線が引かれている。
 ゴメンゴメン、と苦笑いを浮かべて呟きながら、慌てて豊は彼女へと向き直す。
 そんな遣り取りを隔て教室がざわめいたのは、ほんの十数秒後のことだった。
 ガタン、と机同士がぶつかり合う音が聞こえたかと思うと、途端に教室後方にいた数名の女生徒が発した悲鳴があたり一面に響き渡ったのだ。
「きゃあ!」
「ちょ、ちょっと……彩!?」
「渡部ちゃん!」
「何、貧血!?……誰か!ちょっと男子誰か二人ば保健室連れてって!早く!」
 野次馬の如く、大半の生徒が音のした方へと集まっている。 さすがにそんな密室度の高い場所に行くのも気が引けるので豊がほんの少し顔を傾けて覗き込むと、どうやら誰かが貧血か何かを起こしたらしく、人の足の隙間から二人分の髪の毛が僅かに視界へと入り込んだ。
 その髪型と先ほど叫ばれた名前から、貧血を起こしたのは添口彩(そえぐち・あや/女子7番)渡部加代子(わたべ・かよこ/女子17番)なのだと認識すると、ふと、妙だ、という考えが豊の頭の中を過ぎった。 倒れた彩と加代子はたしか、健康優良児のはずだった。
「あたし一回も休んでないさ!」「私だって保健室すら行ったことないし!」と随分昔、二人がふざけて言い争っていたのを聞いた覚えがある。 昔の話をしていて火がついたのかつい最近も同じことを繰り返していて――そう、それはまさに、昨日。 昨日聞いたばかりだったので、鮮明に覚えていたのだ。 クラスで体力がなく体が弱い部類に入る夏目春恵(なつめ・はるえ/女子10番)でさえ今まで一度も倒れたことがなかったというのに、ましてや彼女ら二人が貧血だなんて、そんなまさか。 何というありえない話なのだろうか。
 テスト期間でさえ滅多に働かせたことのないその頭脳を豊がフル活動させていると、今度は教室前方にてつい先ほどまで一緒にいた弥生夏実(女子15番)が、続いてすぐ後ろにいた鈴とまりなの二人がガタン、と大きな音を立てて机と共に崩れていく姿が目に焼き付いた。 しかし今度は誰かの悲鳴が起きることは、なかった。
 脳内コンピューターがその活動の停止を豊に告げている間に、次々とクラスメイトが倒れて行くのが見える。 その光景は、映画の映像の一部のようにも感じさせていた。
 え?え?何なんだよ、みんな。お前らみんなして貧血か?体力なさすぎだべや、んなの。 ちゃんと俺みたいに体力つけろやなぁ……うわ、秋とか窓に寄っかかって寝てるし。器用だなー、もう……
 近距離内でガタン、と机が崩れる音がした。 それが自分の机なのだと理解するのに少しの時間が必要だった。 倒れた机が足全体にぶつかってズキズキと痛みが伝わったのだが、そんなことなど問題ではなかった。
 真希が、倒れている。
 机が倒れた原因は彼女が床に崩れているのを見れば一目瞭然だった。 慌てて真希へと駆け寄ったが、豊の心配をよそに彼女はすやすやと寝息を立て、気持ち良さ気に眠りについていた。
「真希。真希も遅くまで起きて、た……」
 そこまで言い、グラリ、と自分の視界が傾くのがわかった。 すぐに身体全身に衝撃を受けると、そのまま視界が霞んでいった。頭が、ふらふらする。貧血か何かだろうか。
 やや後ろの方で――きっと室内中心部周辺の座席なのだろう。 そこで小さな、僅かに聞こえる程度のとても小さな声がした。 もうほぼ全員が例外なく自分のように倒れているに違いない。その声は豊の耳にはっきりと届いた。
「と、さんの……あーほ。――……ラムじゃんか……」
 今のは誰だ、北上涼(女子3番)? 豊はぼんやりと、そういえば真希の次に澄んだ声してるよなあ、という何とも場違いな想いを浮かべた。ラムって何だろうな、羊だったっけ――そんな考えが一瞬頭を過ぎりそして、豊の意識はそこでプツリ、と途絶えた。
 教室の黒板のすぐ横に立てかけられていた時計の針は、午前九時十四分を指していた。