大切なものすら手放せる

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試合開始:20

独特な粘りが頭に絡みつき、村岡鈴(女子14番)は忌々しそうに舌打ちをしてかぶりを振った。
 校舎を出てかれこれ三十分、四十分――或いは一時間は経過しているだろうか、E-5エリアからC-6エリアの森林に到達するまでには十分な時間だった。時計を持ち合わせていないため今が何時であるか鈴には判断出来ず、プログラムの最中では実に致命的とも言える。普段左腕に巻き付けていたお気に入りのオレンジ色の時計は、つい三日ほど前に電池が切れ、その機能を果たさなくなったため、購入した時計屋へ修理に出したばかりだった。
 本来ならばオレンジ色が覗いたであろう左手首で、髪の毛に絡みついた蜘蛛の巣を拭い取る。不快な感触が、ベルトの代わりとでも言うかのように手首に纏わりついた。
 全くもって忌々しい。唯一の救いは、今までに幾度となく絡み付いたこの巣の持ち主には未だ遭遇していないということだろうか。あんな毒々しい色合いの物体、見掛けてしまったらたまったものではない。声を張り上げてしまうに違いなかった。いや、そんなことしようものなら、誰か彼かに見つかってしまうのがオチなのだから絶対にしないけれど。
 森林に立ち入るということはつまり、自然溢れる場の宿命とは言え、その自然の住人と遭遇する確率が極めて高いことは重々覚悟していたつもりだったが――どうやら“つもり”と称した通り、たったその程度の覚悟だったようである。気持ちが悪いものは気持ちが悪い。生理的に受け付けられないものは、例え自身の生命がかかっていようと受け付けられないらしい。毒々しい色合いが頭を過ぎり、思わず背筋が強張った。
 溜め息交じりに鈴はその場に腰を下ろす。土がスカートにこびり付いてしまうだとか、雑草まみれになってしまうだとか、そんなものどうでも良かった。今はただ、一刻も早く休息が取りたかった。投げやりに私物のスクールバッグとデイパックを足元へと放り投げる。ああ、眩暈がする。何だか先ほどから脚の付け根辺りがいやに重く感じられた。極度の緊張からによる疲労だろうか。

鈴のトレードマークとも言える、きっちりとまとめ上げられていたポニーテールは、この僅かな時間に見るも無残な姿に変貌を遂げていた。頭頂部を結わえる赤いゴムを取り外し、もつれた髪の毛に手櫛を差し込み新たに結わえ直す。纏めきれなかった後れ毛を留めていたピンで再度固定しようとし、そこではた、と気が付いた。尋常じゃないほどに、手が震えている。一度外したピンが、今にも親指と人差し指の間からすり抜けていきそうだった。
「――、」
 手が震えるほどにこの状況を恐れていたし、それ以上に、
(……震えていることに、気付かなかった)
 それほどまでに衝撃的だった――あれは。
 鮮明に映し出された赤錆色は色褪せずに、脳裏にこびり付いて離れない。教室窓際の隣の列、先頭に位置する鈴の座席とはほぼ真逆の位置でそれは起きたが、体を開かせ振り向いた先に見えたのは、日常生活をよく知る仲間の頭部から滴り落ちる赤錆色だった。
 ドロリ、と言う効果音が適切だったかもしれない。まだ経って間もない当時のことを想い返し、胃から込み上げるものがあった。寸でのところで逆流を防ぐも、一部が気管に入ったのか、堪らず鈴は大きく咳込んだ。口いっぱいに特徴ある苦味がじんわりと侵食していく。こんなの、たまったもんじゃない。取るもの取りあえず、傍らに投げ捨てていたデイパックを漁り、水の入ったペットボトルへと手を伸ばした。キャップを開け慌ただしく水を含み、口内まんべんなくすすいでいく。気持ち悪い。気持ち悪い。吐きそう。嘘、吐く。吐きかけ。気持ち悪い。
 あれみたい。いや、違う、あれなんかよりももっとひどい。もっと何か、――ダメ。
 先月迎えたばかりの初経で見た色や臭いも鈴に大きな衝撃を与えたが(早熟に見られているが、この年になってようやく生理を迎えたなんて、友人にも言えるものか)、その衝撃をも遥かに上回るほどの色合いと臭いだった。
「あんなのになんのか」
 不意に言葉が零れ落ちた。零れた言葉がじんわりとその意味を頭に浸透させていく。浸透されていった意味がじわじわと脳内で具現化されていき、それは次第に安原伸行(男子14番)乃木由依子(女子11番)の姿へと形作られていった。勿論、その顔にかつての彼らの面影など微塵もなかった。

――少年を見掛けたのは、そんな矢先のことだった。
 ガサガサと勢いよく葉の擦れる音がしたかと思うや否や、ビュン、と勢いよく目の前を少年が駆けていく。
 余りにも突然の出来事に鈴の体は全くもって反応出来ず、静止ボタンを押されたかのようにただ茫然とその場に固まったまま、少年が過ぎ去るのを見つめるばかりだった。
「は、……何、……森下?」
 背丈はお世辞にも高いとは言えないが、その分有り余る重量を内に秘めている体。本来動きが鈍いであろう彼とは対極に位置するその動きに、鈴は図らずも呆気にとられてしまった。
 僅かばかりに静止ボタンが作動していなかった脳味噌をフル回転させて出てきた少年の名は、森下潤一(男子13番)その人だった。
 ほんの、ほんの一瞬のことだったので定かではないが、しかし。
 見間違いでなければ、本来、常に仏のような笑みを浮かべていた筈の潤一の顔に、ひどく恐ろしい形相が浮かんでいたのが分かった。血走る目、あの一瞬の間に聞こえた何とも捉えられぬ奇声、口からほとばしる唾液。
 分かったのは、それだけだった。
 上手く吸い込めない空気を何とか喉奥へと押しやり、鈴は一度大きく息を吐いた。
 木々の合間、合間から少しずつ差し込んできた朝焼けが眩しい。手をかざして視界に影を落とし、ゆっくりと顔を空へと向け直す。破裂音のように鳴り響く心臓を収めるべく、彼女は再度深く息を吸い込んだ。
「……あんなのになんのか」
 先刻呟いた言葉と同じものを再び口にし、彼女はしばらく無言で傍らのデイパックを見つめた。
 分校出発直後、一度は手に取って眺めたものの、どうにも気分が乗らず――と言うよりも、それを手にすれば、自分の中のとある感情を引き留めていたものを、その手から離してしまいそうな気がして――結局は持ち歩くことなく、デイパックの奥底に仕舞い込んだ“それ”。デイパックへと手を伸ばす距離が縮むにつれて、そのとある感情は自分の中から離れようとしていくだろうことは、薄々、いや、十分理解している、けれど。
 次から次へと噴き出してくる汗を袖で拭い、鈴は再びデイパックへと手を伸ばした。
 一度は奥底へと鳴りを潜めていた“それ”は、自ら存在を主張するかのように鈍く光を放っている。
「……あんなのになんて、ならない」
 鈴は無言で“それ”を見つめた後、静かに口を開いた。

【残り 二十八人】


試合開始:21

丸々としたシルエットが、徐々に昇りはじめた朝日によって雑木林に浮かび上がる。道という道が在るはずもなく、どうにも走り難い。
 溜まりに溜まった腹部の脂肪分を上へ下へと暫く揺さぶり続け、少年の身体では内側から焼き尽くされるような感覚が続いていた。――ほら、いい加減ミディアムにするのか、もしくはレアにするのか、何にするのか決断して下さいよ。こんがり丸々と焼けた子豚ちゃんはとっても美味しいんだから、おひとつ食べさせて下さいよ。切り分けてもよろしいですか、それともこのままペロリといっちゃっても構いませんか――
 勢い余って前方につんのめりながらも、少年は闇雲に雑木林を走り抜けた。彼の手の平はそこら中で彼を遮る木々の枝や葉を掴む。私物の鞄や支給された筈のデイパックの代りに昇りかけの陽を背負い、息も絶え絶えに、彼は一心不乱に走り込んだ。
「ぜはぁっ……はっ……ぜぇ……はぁっ……」
 時を遡ること幾分前か、E-5エリアにてデイパックと私物の鞄を放置した後、絶えず会場内を走り回る少年の姿が一部エリアにて確認された。否、頻繁に時と場合を選ばず直立不動の体制でいたことも度々見受けられたが(恐らく休息を取っていたのだろう、一心不乱に体内に酸素を取り込む少年の姿がそこには在った。元々体力も運動能力も芳しくない彼であるので、当然のことと言えよう)、兎に角。
 現在少年が駆け抜けているのは、エリアでいうところのD-6。丁度森林エリアを抜け、南西方面へと下りつつあった。一度はC-6の森林エリアへと足を運んだものの、その雑木林の容赦ないお出迎えに耐えられなく、暫く進んだ後、踵を返し元来た道へと走り出していた。無論、“耐えられない”という知覚さえ、今の少年には理解できていないことなど、少年自身知る由もない。彼は今、本能のままに突き動かされていた。最早閉じることを忘れてしまった開け放たれたままの口元からは、か細い息がヒューヒューと漏れ続けている。

僕も死ぬ。君も死ぬ。あの子も死ぬ。あいつも死ぬ。頭なくなる。何か飛び出して死ぬ。右目飛び出して死ぬ。左目飛び出して死ぬ。死んだ?死んだ。頭半分なかった。死んでた。倒れてた。死ぬ。死んじゃう。死ね。無理。死ぬ。嫌だ。

「嫌だいやだ嫌だいやだいやだ嫌だ嫌だいやだ」
 少年の口から繰り返し言葉が飛び出していく。砂利や枝によって既にボロボロになりつつある学生服から突き出された右手をおもむろに口元に押しやると、その手の甲を狂ったように噛みしだいた。
 南西へ、南西へとただ一直線に駆け走ったまま、むさぼりつくように少年は右手の甲へと歯を立てる。噛み跡は時計の針が進むと比例し増え、その数が片手では数えきれなくなる頃には皮膚をも千切り、血の筋がそのふくよかな腕へと滴り落ちて行った。
 少年は痛みを感じなかった。正確に言えば、もう感じることは不可能となっていた。
 右手の甲の皮膚一部を噛み千切ったと同時にE-5へと足を踏み込んだと言うことに気付くこともないまま、森下潤一(男子13番)は静かに事切れていた。その拍子に地面に勢いよく叩き付けられた右腕へも、新たに作り出された手の甲の傷へも目を落とすことなく、潤一の身体は崩れ落ちる。エリアに足を踏み込んだと同時に作動した首輪の爆弾のプログラムが、容赦なく神経細胞を破壊し、彼の頭部を身体から引き散っていた。
 もう二度と光を帯びない彼の両の目だけが、更に南西の方角にある、彼の私物が放置されたままの出発地を見つめていた。

【残り 二十七人】