価格は八百四十円

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試合開始:14

何かに躓いた――そう理解するよりも早く、危うく地べたと一生に一度のファーストキスを交わしかけた。
 すんでのところで顔を左へと向けると途端に、爪先に激痛が生じたが、間髪入れずに、それを掻き消すほどの焼け付くような痛みが頬を襲う。
「つぅ……」と呻き声を漏らしながらさすると、指先から伝わったのはべろりと剥けた頬の皮の感触だった。頭から前方へと滑り込みながら地面に叩きつけられたので、おそらくその際に出来たものだろう。じわじわと帯びる熱が、脳をも犯しているように感じられたのは自分の錯覚だろうか。
 幾ら野球部員とはいえ、こんな滑り込みは滅多にしない。いや、しない。ベースへの滑り込みは度々しているのは事実であるが、ご覧のような有り様になることなど、過去において見た試しがなかった。――いや、まあ一、二回程度ならあったかもしれない。もしかすると、それ以上。しかし現状程のものではなかった気がしないでもないが、それはさておき。
 日頃皮膚の下に隠されている粘膜が、堂々とさらけ出されている。自らその傷を直接見ることはかなわないが、それを想像しようとしたところで、やめた。
 わずか一瞬の出来事に、頭が追い付かない。学生服の袖を捲ろうものなら、鳥肌が顔を出すに違いない。母親に「男の子でしょ!」と叱咤激励されそうな気がするが、それでも進んでグロテスク(であろう)ものを見るような真似はしたくなかった。
 いやいや、それよりもだ。今のは一体何だ。何がどうなって、今、自分はこのような状態になっているというのだ。
 地べたに這いつくばったまま、少年は考える。
 頬に触れていた手は、今や身体同様に地面に投げ出されていた。思考回路をも遮断するように瞼がゆっくりと閉じられる。
 少年の頭を占めていたはずの焼けるような熱さが、急激に冷えていった。
 もうすでに閉じているはずの瞼が重い。
 立ち上がるのが億劫とでも言うかのように、彼の口元が歪む。
 かと言って、このまま身を投げ出している訳にもいかなかった。雪山などでよく言われている「寝るな、寝たら死ぬぞ」――いやはや、まさにその通りである。もっとも、それに至る経緯は似て非なるものであるのだが。
 何はともあれ、寝たら死ぬ。その根本的な事実は、とりあたまの自分でも重々理解出来た。
 ごろりと仰向けになり、空を見上げる。空一面に敷かれたかのように、無数の星が瞬いていた。
 土埃のついた制服を払いながら、手足に力を込めて少年はゆっくりと立ち上がった。
 重心をずらした際、頬や爪先だけではなく身体の節々が痛んだが、そのような甘いことを言ってなどいられない。ましてや今、このような状況下で。
 ぐい、と顔をぬぐいながら真堀豊(男子12番)が後ろを振り返ると、足元には石の塊が転がり落ちていた。石の大きさは凡そ五百ミリペットボトルほどの大きさだった。大抵の場合は気付くであろうその石の存在に気付かぬほどに、自分は冷静さを失っていたのか。
 その事実に気付いた今、なるほど、これかと把握した彼の頭は、妙に冷静だった。

分校を出た直後、不意に豊の目に留まったのは、分校の二階に位置する教室の窓越しにカーテンが揺れ動く姿だった。
 六月ということもあり、窓が開いている。
 ゆらゆら、ゆらり。カーテンが揺れる。
 月明かりに浮かび上がる白がふわりと風に揺れ、その拍子に白の奥で黒の影がうごめいた。
 その影の正体が果たして何であったのか、彼はそれを知る由もない。
 得体の知れない何かがあの室内にいるということだけが、豊にとっての目の前にあるただひとつの事実だった。
 瞬間、背筋が凍りついた。
 日常生活の中であるならば笑って済ませるに過ぎなかったであろうが、あいにく、先刻教室で殺された安原伸行(男子14番)乃木由依子(女子11番)両名の無残な姿が未だ脳裏から離れない中での出来事だった。豊はその場に釘付けになった。
 その後の彼の行動は目にも止まらぬ早さだったのは言うまでもない。
 一目散に校門へと走り出すと、そのままなりふり構わず校舎前の坂を駆け下りた。
 なだらかな傾斜だったこともあり次第に勢いは増し、また加速し始めた豊を止める者もいなかったこともあり、瞬く間に少年と校舎との距離は離れて行った。
 ガシャリガシャリと鞄やデイパックの中で物同士がぶつかり合う激しい音を辺りに響かせながらの全力疾走。その姿は、馬車馬のようにも見える。きっと客観的に見た自分は、ひどく滑稽な姿であろう。しかし今はただ、早くこの場から離れたいと、それだけが豊の胸中を占めていた。

「……やべ、俺何してんの」
 道を外れ、茂みの中へと身を潜めはしたが、先ほど躓いた石の塊の付近から離れることなく――むしろ視線はそちらへと向けた状態のままで、豊は独りごちた。「何してんだよ、まじで」言いながら、自嘲的な笑いが浮かび上がった。
 今はもう鳥肌の収まった腕を組み、そのまま唇を動かし続ける。「だって、あれじゃん」
「太助に良太だろ」左の親指、間髪入れずに人差し指を折り込んだ。
「武也に秋だろ」続けざま、中指、薬指も同じように折り込む。
「それに、夏実さんとか――」小指を折り込み、左手がグーの形を描いた。「――真希とかさぁ」
「待てたじゃん。俺、何してんの。何、なんか逃げちゃったり?してんの」
 誰に聞かせるでもなく、否、自分自身に問いただすかのように豊は唇を動かし、結果的に握りしめた形となった掌に力を込めた。
「――戻んべ」
 石の塊に向けていた視線を一メートルほど先へと向けた。肩には私物である鞄を背負ったままだったが、支給されたデイパックは滑り込んだ拍子に前方へと飛ばしてしまったらしい。足を動かすたびに体のあちらこちらが軽く悲鳴を上げたが、そんなものに対してだんまりを決め込み、デイパックを拾い上げた。改めてよく考えてみると、各自支給されると教えられていた武器を確認することすらしていなかった気がしてならない。
「や……戻る前に、武器、確認しとかないと」
 おもむろにチャックに手を掛けると、ゆっくりと引き下ろす。隙間越しにペットボトル――山田太郎は中身が何であるかまでは口にしていなかったが、おそらく水入りの――が顔を覗かせた。
「あいつ、ペットボトルと、その、武器と、あと何入ってたっつってたっけか……」
 立ち仕事だとどうも具合が悪いので、その場にしゃがみ込み、デイパックに入っている物資をひとつずつ確認していく。まずは一番上に無造作に置かれていた五百ミリペットボトルが二本、次いでその下敷きになっていたためにぐしゃぐしゃに折り目がついてしまっていた地図、コンパス、手に持てる大きさの懐中電灯、――そして。
「……タフデント……?……うん、タフデント……」
 大事なことなので、二度言いましたよ。除菌率およそ百パーセント、除菌が出来る、タフデント。政府側が気を利かせてくれたに違いない、商品の中でも一番量の多い百八錠のものであった(ちなみに価格は八百四十円である――実にどうでも良い)。
 こんな入れ歯洗浄剤で、政府は自分にどうプログラムで行動しろと言いたいのだろうか。
 きっと恐らく、遠方に住む祖父に送ったら大喜びしてくれるであろうその品を、豊はしばらくの間呆然と見つめていた。

月明かりに浮かび上がる白がふわりと風に揺れる。カーテンの隙間を縫って、室内に月の光が差し込んだ。影はその光に目を留めると、おもむろに窓際へと歩み寄った。どうやらカーテンが閉まり切っていなかったようだ。否、風によってズレが生じたのだろう。
 机と机の間を掻い潜り、室内でプログラム本部の雑用をこなしていた兵士がカーテンに手を掛ける。何気なく窓の外へと目を向けると、名も知らぬ男子生徒が勢いよく敷地内の外へと走る姿があった。
「……」
 真一文字に結ばれた唇を動かすことなく、彼は月の光を遮断した。

少年にとって、得体の知れない何かが彼が目を向けた室内にいる、それだけが目の前にあるただひとつの事実だった。例え真実が、室内で雑務を行っていたに過ぎなかった政府直属の兵士の一人の影が浮かび上がっていただけだったとしても。

【残り 二十九人】