真っ黒なコートをいっそう際立てるかのように、それは存在した。
 まっさらな鞄も黒、まっさらな洋服も黒、まっさらな靴も黒。ただ唯一お古だったのは兄から貰った黒のコート。その黒の上にそれはまさに存在したわけだが、正直今の自分にとってそんなものどうとも思わなかったのが事実だったといっても良い。例えお古じゃないにせよ、新品にせよ、そんなもの嬉しさの欠片もなかったのだ。
 本来ならば着る予定のなかった洋服。本来ならば履く予定のなかった靴。本来ならば抱え込むことのなかった鞄。コートだけは、今も昔もこれからも、今後予定のない――などということはないものだったけれど。まあそれは兎にも角にも。
 しんしんと雪が降る。風の流れに乗せられ、上へ下へ右へ左へ、右往左往と雪は宙へ舞い上がっていた。そんな中で、幾らか自分の身にも降り注いだ雪の中で目を引いたのが、在り来たりで、それでいて極上の形は余り目にすることのない――否、目にすることの出来ない雪の結晶だった。
 それは目の前を慌しくも柔らかく落ちてゆき、差し出した腕、黒の上に降り立った。
 じい、と長い間見つめていると、瞬く間にそれは跡形もなく姿を消した。じんわりと滲み、浮かび上がり、仕舞いには水となり溶けてゆく。
 ぼんやりとした視線を腕から引き剥がし、結晶が降りてきたであろう道筋を辿る。それは宙を辿り雲を越え空へと続いていき、到底自分には見えるはずもなかった。
 空を仰ぎながら息を吸い込めば、途端に口元から白い靄が吐き出される。
 白い靄に霞みながらも冬に舞い降りる小さな小さな花弁が、その風貌を次第に現していった。

「…あんたがこれ降らしてるのかなぁ…」

 慰めはいらないのに。そう呟けば、その後声が漏れることはなかったのだが、それでも小さく小さく、馬鹿、そう口を動かしたように思えた。
 少女は漸くその場から足を動かした。そうだ、そろそろ母さんが温かいシチューを作って、私を待っているわ。そうよ、だから私、行かないといけないの。悪いわね。
 掌に握り締めた季節外れの一輪の花をその場に下ろそうとして――止めた。

雪の花弁

 だってもう、少年に捧げる花は、とうの昔から神様が準備されていたのだから。

  • ( 07.12.20 )